スタジオ4℃を人質に取られたので、やむを得ずプぺった。
高校生の頃、同制作会社が手掛けた『鉄コン筋クリート』をテレビ放送で見たのだが、それがもうとんでもなく面白くて、完全に心を奪われてしまった。録画したやつを何回も何回も見た。学校から帰ったら、すぐテレビの前に噛り付いた。20回以上は見た。設定資料集みたいなやつも買った。原作も愛蔵版と通常版と両方買った。そのくらい好きだった。
対して、今回見た映画の原作者である西野氏のことは、あまり好きではない。いろいろとすごい人なんだろうなぁとは思うのだが、電車賃のクラファンの件やら何やらのせいで、どうしても不信感が拭えない。なんというか、自分を応援してくれている人への愛がない気がする。電車賃の件にしろその他のクラファンのリターンにしろ、私なら自分を応援してくれている人にあんな仕打ちはできない。でもまぁそれでもついていく人がいるということは、それだけすごい人なんだろうなぁとは思う。が、とにかく好きではない。
ので今回の映画は見送る予定だったのだが、昨日観に行く予定だった公演が中止になってしまい、急に予定が空いたので、せっかくなのでプぺった。友人と3人でプぺった。友人が「実質3プぺじゃん」とか言ってるのがめちゃくちゃ面白かった。
『えんとつ町のプぺル』は、急に始まった。急に始まって急にナレーションでいろいろ説明されて急に謎のオープニングダンスを見せられた。開始5分でもうついていけなかった。映画にしろ何にしろ、最初の数分は観客を世界に導入するためのとても大切な時間だと思うのだが、「はいこれはこういう映画です!」「はい今始まりました!」「はいタイトルドーン!」「はいオープニングダンスドーン!」という感じであっけにとられた。
ゴミ山から突然生まれたプペルが、突然踊りだすのだが、なぜ踊るのかがわからない。映画でも演劇でも、オープニングダンスは良くあるし、私も大好きで自分が脚本を書くときは毎回のようにダンスシーンを入れる。なんかかっこいいし勢いあるし始まった感が出るから躍らせたい気持ちはよくわかるのだが、観客からしたら「なんでいきなり踊るの」という気持ちになりかねない。なので、ダンスシーンを入れるときはそれなりにちゃんとした理由が必要なのだが、それが見当たらない。なぜ踊っているのかがわからない。躍らせたかったのはわかるがなぜプペルが踊っているのかがわからない。
それから何やかんやあって、プペルが人間じゃないということがばれて、逃げる過程で本作の主人公であるルビッチと出会って、ごみ焼却場から逃げたり暴走するトロッコに乗ったり大冒険を繰り広げる。ちなみに個人的にここがこの映画のピーク。映像がすごい。語彙がないのですごいとしか言えないのだが、爆走するトロッコの躍動感とかわくわく感とかがとにかくすごい。さすがスタジオ4℃さんやで。とにかく映像はすごい。すごいのだが、プペルとルビッチの会話が気になって気になっていまいち楽しめない。台詞がやたらと説明的なのだ。例えば、高いところから落ちそうになったルビッチが、とっさにその辺の紐につかまる。同時にプペルもつかまる。そこでルビッチが「二人もつかまったらちぎれちゃうじゃないか!」と言う。なんというか、こう、とにかく説明的なのだ。まず紐につかまった時にちょっと安心して、二人目が捕まったときにちょっと慌てたりなんだりすればいいだけの話だと思うのだが、何故かすべてを台詞で説明してくれる。ありがたいといえばありがたいのかもしれないが、余白がなくてただただしんどい。
そんで大冒険を終えたルビッチは、急にプペルに「友達になってくれ」と言う。ルビッチには友達がいない。母親には「ハロウィンなので友達と遊んでくる」と伝えておいたのだが、実際はえんとつ掃除(仕事)をしていた。しかし母親を心配させたくないので、実際に「友達」を連れて行って親を安心させたいという算段なのだが、ここも急なので「なんでいきなり友達!?」と面食らう。いや一応、ルビッチがプペルに色々質問して、こいつなら身寄りもないし友達役にうってつけだと判断したうえで「友達になってくれ」と持ち掛けているし描写もあるのだがその描き方が不親切なので、急だと感じてしまう。間がない。とにかく間がない。いやあるにはあるのだがテンポが一定なので思案の間を感じない。ルビッチがプペルに色々質問して、あれこれ考えた上で(間)、よしと決意して(ここで息が入る)、「友達になってくれないか」と提案する。いやまぁやってないことはないのだが描写が雑なので、彼らに人間味を感じない。感情移入ができない。
それからまた何やかんやあって、プペルを家に連れ帰り、職場にも連れていき、上司に頼んでプペルに仕事を与えてもらう。ここも何故ルビッチがプペルを働かせようとしたのかよくわからなかったな……行くところもないから彼なりに自立の手助けをしたかったのかな……できた子供やな……。
そんで異端審問官なる敵から隠れつつ、彼らの日常が始まる。えんとつ町はその名の通り煙突まみれの町で、その煙のせいで空はまったく見えない。町の周囲は海で、町人は外の世界の存在を知らない。異端審問官は、町民に外の世界の存在を知られない為に色々頑張っている。プペルみたいなよくわからない何かも、なんか危険そうだから排除しようとする。あと何かしらんけど「星」を見ようとすると怒る。
えんとつ町は空が煙でおおわれているため、星が見えない。なので星は存在しないことになっている。ルビッチの父親(故人)は、星の存在を信じていたがためになんか迫害とかされる。そしてルビッチも父親同様星の存在を信じているので、なんかジャイアンみたいなのに殴られたりする。それでもルビッチは星の存在を信じているので、色々頑張って星の存在を町民に知らしめてヤッター!ってなってこの映画は終わるのだが、あたしゃなんで異端審問官の皆さんが躍起になって星を見ることを阻止しようとするのか全然わからなかったよ。いやね、外の世界の存在を知られたくないってのはわかるのよ。その理由もちゃんと説明してるし納得はできるのよ。でも星空が見えることと外の世界が存在していることってイコールじゃなくない? 星は星で見えてて別によくない? あれが別の惑星だなんて思わなくない? だって惑星って概念すらないやろ? 星を見たところで、ちゃんと説明しなかったら「お空で光ってる綺麗な何か」とかしか思わんくない? だから海に出ちゃだめっていうならわかるけど星みたらあかんってのは違くない? 異端審問官が「星だとォ!?」とかって切れる理由なくない? なくなくなくない?
失礼。いやたぶんなんですけど、「星をみにいく」っていう字面が綺麗だからってだけなのではないかなぁと思いました。違ったらごめんね。怒らないでね。
異端審問官は、あくまで「外の世界の存在を隠す」のが目的なので、海に出るのを禁ずる理由はあっても、星の存在を否定する理由はないと思うんだあ……。いや私が頭悪いだけかもしれないですけど。
なんというか、この作品は、ちょくちょくこういう「これがしたかったからこうしたんやな」ってのがちょくちょくある。例えばルビッチの上司がえんとつに上ってるときに敵に狙撃されて落ちて怪我するんだけど、「なぜ命綱もなしにそんな高所での作業を……?」と違和感がすごい。煙突から落ちて怪我をするという展開のためだけにそうした感が強い。先述の星の件も、星の存在と外の世界の存在はイコールではないのに、「星をみにいく少年とそれを阻害する敵」という構図にしたいがためにそうした感が強い。そういう細かいウソがあまりにも多い。子供向け作品なんだからとかアニメなんだからとか言われそうだけど、子供向けだからこそ嘘をついてはいけない。子供だましなんて言葉があるけど、子供は簡単にだませない。
そしてこれは衝撃のネタバレなのですが、実はプペルはルビッチの死んだ父ちゃんなんですけど、それもなんかいきなり判明する。プペルが鼻の下をこする動作が父ちゃんっぽくて「父ちゃんなの……!?」といきなり感動のシーンが始まりドア越しに母親が泣いてるカットが入ったりいい感じの音楽が流れたりして泣かそうとしてくるけど、心の穢れた大人である私は「えっ、いやそんな今まで伏線あったっけ? いやあったかな? 私がぼけーっとしてただけかな?」と色々考えてしまい泣くどころじゃない。
そんでプペルの頭の中に、父ちゃんの形見のブレスレットが入っていて、プペルはそれを外してルビッチに返そうとするんだけど、なんかルビッチは急に「それは君の心臓なんじゃないか!? それを取ったら死んじゃうのでは?」とかって瞬時に理解してなんか感動させようとしてくるけどできない……できない……。「父の形見であるブレスレットがプペルの心臓がわり」。これまた字面だけ見るとめちゃくちゃかっこいいし感動的だしファンタジー感あって最高なんだけど、なんでルビッチはブレスレットが心臓替わりって秒で理解するのかが私にはわからない……愛の力なんですか……? 「だってファンタジーだから」とか言ったら怒るで。ファンタジーってのは超展開を都合よく片付ける言葉ではないんやで。
私はすぐ泣く。本当にすぐ泣く。ファインディングドリーとか始まって数十秒で泣いた。映画の予告で泣いたこともある。現代文の模試の小説読解の問題文でも泣いたことがある。でもこの映画では本当に一回も一秒も泣かなかった。あーここで泣かせたいんだろうなという箇所はいくつもあったのだが、それがあまりにも露骨すぎて全然泣けない。どんなに感動的な音楽を流されても感動できない。なんかもう最初から最後まですべて決まっているのだ。ここでこんな感情になってここでこんな気持ちになれって全部決まっているのだ。観客が想像するための余白なんか一ミリもない。後半では父親のナレーションでこの映画のテーマを無限に聞かされ、エンドロールでも西野氏作詞の「夢見る人を笑うな」みたいな歌を無限に聞かされ、なんかもうお腹いっぱい、お腹いっぱいだ。わざわざそんなナレーションで語らなくても、夢に向かって突き進むルビッチを見ていたら理解できるのだ。「夢を見て馬鹿にされ」とかわざわざナレーションで語らなくても、作中で民衆から馬鹿にされているルビッチを見ていたら理解できるのだ。観客はそんなに馬鹿じゃない。馬鹿じゃないのだ。
もう本当に後半の父親のハイパードリームナレーションタイムからの作詞作曲西野の「夢を笑うやつ許さんで」みたいなエンドロールでもう……もう……。そこで私はやっと気づいた。この映画をほかの映画と同列に語ってはいけないのだと。登場人物と一緒にハラハラドキドキして人生を共にするような作品ではないのだと。これは西野氏の講演会なのだ。西野氏の主張を聞く会なのだ。だから没入感とかないし感情移入とかできないしそもそも私のような客はお呼びではないのだ。行くんじゃなかった。
しかし映像はよかった。本当によかった。細部まで作りこまれていて、町の設定資料集とかあったらちょっとほしいなと思った。ワンシーンずつじっくり見たい。引きで見た時の夜景がめちゃくちゃ綺麗だったのもよく覚えている。
脚本も、あらすじはそのままで構成だけ変えたらめちゃくちゃ面白くなるのにと思った。作者の主義主張より、もっと観客に寄り添い、登場人物に寄り添い、プペルとルビッチをいち人間として扱って、嘘をつかずに丁寧に丁寧に作りこめばこの作品は傑作になったかもしれない。あっいや、すみません私個人の意見です……もうすでに傑作やって言ってる人もいるしねごめんなさい私個人の意見です……。
あともう一つ気になったこと。これはツイッターでだれかも言っていたんだけど、異端審問官のみなさんが外の世界を隠そうとする理由が、作中ではっきり語られているんだけど、それがめちゃくちゃ納得できる。ルビッチたちは周りの反対を押し切って、外の世界の存在を知らしめたけど、これから襲い来る脅威にどうやって立ち向かうんやろな……。自分の夢のことしか考えてなくて、夢をかなえた彼は正義で、あとは全部どうでもええのんか……。あと民衆がめちゃくちゃ頭悪いのも気になった。いや民衆ってのはいつの時代も愚かなんですけど、(ジーザスクライストスーパースター見て)いくら何でも頭が悪すぎる。星を見ようとするルビッチのことを「迷惑だ」とかいやなんで迷惑なのかよくわからんけど、とにかく輪を乱そうとする彼らのことをめちゃくちゃにののしるくせに、星が本当にあるんだとわかった瞬間の手のひら返しがすごい。さすがにやりすぎ。ただの馬鹿な民衆なんじゃなくて、彼らがルビッチに反対するのにもちゃんと明確な理由があって、心変わりするのならその葛藤があって、って、人間なんだから。正解みせられたから「はい僕たちがわるかったですー!」とはならんやろ。これが作者にとっての理想の世界なんかもしれんけど、いやそうはならんやろ。だってみんな人間やねんから。みんな自分で考えることのできる人間なんやから。
追記。
目の前の席に座っていたカップルが、何度も席を立つしごそごそ動くし背伸びするしでめちゃくちゃ不快だった。お前がぐっと伸ばした腕は私のスクリーンに突き刺さってるんやで。そんなに退屈だったんか? って思ったら終演後「感動したねー」とか言ってたからもう僕はわからない……わからないよ……