毎日が告別式

人生どん詰まり元芸大生のブログ

じいちゃんが死んだ

 愛媛に住んでるじいちゃんが死んだ。最後に会ったのは今年の正月、コロナ対策で、窓越しに手を振っただけだった。その前に会ったのはいつだったか。「次わたしが東京から帰るまで生きといてよ」「頑張って生きとこわい」そんな話をした。なのに死んだ。危篤だと連絡があってから数日後のことだった。祈った。いるのかわからない神か何かに祈った。じいちゃんを生かしてくださいと祈った。祈るってこういう事なんだなと初めて理解した。初めてかもしれない。祈ったのは初めてかもしれない。

 

 峠は越したはずだった。なのに死んだ。夜中の1時に、母から「じいちゃんが亡くなりました」とラインが来た。世界からすっと音が消えた。重力が何倍にもなった。じいちゃんが死んだ。電話越しに聞く母の声は滲んでいた。電話はすぐに切れた。思い出したように私も泣いた。声を殺して泣いた。殺しても殺しきれない涙が声が零れてきた。

 「人は生き返らないのに、何故生き返るという言葉があるの」と、子供のころ、母に聞いたことがある。「さあ、死んだと思ったら生きてたとか、そういうことがあったからじゃないん」と母は気のない返答をした。大学生のころ、同じ質問をとある先生にした。「祈るため」という答えだった。

 ああ、なるほど、これなのかと数年越しに実感した。祈っていた。峠は越したはずだろう、何かの間違いじゃないのか、私がぼろぼろ泣いている暇に、急に息を吹き返して、ほら今にも母ちゃんから電話がかかってくるかもしれない。笑いながら「生きてたわ!」と連絡が来るかもしれない。そして今はコロナのせいで帰省もできないから、次に帰るときまでにしっかり体力をつけてもらって、そして全部が終わったら会いに行って、「もう、何勝手に死のうとしよんよ、びっくりしたわ、次私が帰るまで生きとくって約束したろ? やめてやー」と言ってゲラゲラ笑えるかもしれない。そうであってほしい。間違いであってほしい。それに肉体は止まっていても、魂はまだすぐそこにいるはずだから、ふとした拍子に戻ってくるかもしれない。そうであってくれ、そうであってくれともう28にもなる私は泣きながら祈った。しかし祈りは届かなかった。じいちゃんは死んだ。葬式のために帰ることにした。

 本当は危篤だとわかった瞬間から帰りたかった。でも帰ったところで、コロナの関係で県外からの見舞いはできない。会えるのは市内の人間だけで面会時間は10分。でも峠は越えたから、今我慢したら次に帰るときまでには元気になっていると思っていた。私の中ではそう決まっていた。でもそうはならなかった。「帰ってくる?」と待ち望んだ言葉をもらえたのは、じいちゃんが死んだからだった。

 

 翌日、新幹線に乗って帰ることになった。その日は朝から15時までバイトの予定だった。店に事情を話して、1時間だけ早くあげてもらえないかと相談した。もっと早くても大丈夫だよ、と言ってもらえたのだが、ただでさえ迷惑をかけているのだから、ギリギリまで働きたかった。料理長も、帰っても大丈夫だよと言ってくれた。でもまで仕込みも何も終わっていなかったので、「じゃあ作業が落ち着いたら帰らせてください」とお願いした。涙は発作みたいに急に出てきた。野菜を切っている時に、ボウルを洗っている時に、変なタイミングで急に出た。でも泣きながら働くやつとか本当に最低なので、目からこぼさないように食いしばって耐えた。

 ある程度片付いたタイミングで、料理長がまた声をかけてくれた。本当に帰って大丈夫だよと。でも今は落ち着いていても、この先まだやることはたくさんでるだろうしと渋っていたのだけど、「ほかの店からヘルプを呼んだから、あなたが帰るからとかじゃなくて、もともと夜人手が足りないから呼ぶつもりだったから、だから大丈夫」「向こうに家族がいるんでしょ、手伝うこともあるでしょ」と料理長は私を納得させてくれた。さすがに泣いてしまった。28にもなって私は本当によく泣く。言葉に甘えさせてもらって、その日は予定よりかなり早く上がった。

 

 埼玉に住んでいる弟と東京駅で待ち合わせをして、一緒に新幹線に乗った。愛媛まで約5時間。永遠みたいな時間だった。私と弟はそこそこ仲が良い。いつもしょうもない冗談を言ってゲラゲラ笑っているのだが、その日はお互いお腹の中に何か黒くて重たいものがあるような感じで、ぼそぼそと少しだけ喋った。

 愛媛についたのは深夜0時頃。葬式会場の親族控室にじいちゃんはいた。遺影がめちゃくちゃいい写真でとってもかわいくてまためちゃくちゃに泣いてしまった。最後に会った時は、窓ガラス越しだった。そして久々に会った今回も、ガラス越しだった。棺桶の窓ガラス越しだった。全然死んでる感じがしなかった。月並みな表現だが、本当に今にも動き出しそうだった。涙はもう自動的にずっと出てきた。

 母ちゃんがいろんな話をしてくれた。死因は肺炎。隠れて煙草をずっと吸っていたから自業自得だし、88まで生きれたんだし、「だから悲しむ必要はない」という事なんだろうが、でも悲しいものは悲しかった。

 

 告別式では、故人の紹介アナウンスみたいなのを流す。式場の人が、じいちゃんの良い思い出を教えてくれと母と喪主である叔父に言ったのだが、叔父は「特にないなぁ」と言い、母もそれに同意し、式場の人は笑っていたという。若いころのじいちゃんは、それは結構なクソ野郎で、母も叔父もそこそこに苦労をしたと言う。

 母が寝た後、弟がぽつりと言った。「母ちゃんはああ言うけど、でも俺らの知ってるじいちゃんは、一緒に将棋してくれたとかそんなんやし」と、めったに泣かない弟が目を赤くして言った。冷たくなったじいちゃんと対面した時、私は分かりやすくぼろぼろと泣いていたのだが、弟はじいちゃんをじっと見て静かに目に涙をためていた。

 じいちゃんは優しかった。子供のころなんかは、将棋をしているときとかに、よく「さいあがるな!(はしゃぐな)」と言われ怖いと思ったこともしばしばあるのだが、でもじいちゃんは優しかった。いつもニコニコしていた。ある時、「私も弟も、ピノってアイスがめっちゃ好きなんよ」という話をしたことがある。するとじいちゃんはそれからずっとピノを買ってくれた。冷凍庫には常にピノのファミリーパックが入っていた。ヘルパーさんにお願いして買ってきてもらったという。じいちゃんの家に遊びにいくたび、「アイスがあるで」とピノをくれた。「たぶんじいちゃん死ぬまでピノくれるで」なんて笑いながら話していたのだが、本当に死ぬまでずっとピノを買っておいてくれた。

 じいちゃんの家にいくと、弟とじいちゃんはいつも将棋をしていた。私もルールは知っていたのだが、特に勉強はしていたので全然強くなかった。でもここ1年でかなり勉強したので、じいちゃんと将棋をしたかった。次に帰ったらするつもりだった。なのにもうじいちゃんは死んでいた。

 

 母が寝て、弟が風呂に入っている隙に、こそっとじいちゃんを見に行った。やっぱり生きてるみたいだった。「じいちゃんー、帰ってきたでー、ほんとは生きてるんやろー」と小さい声で話しかけた。でも全然返事をしてくれなかった。なんでや。次帰るまで生きとくって約束したやろが。

 

 告別式は翌日だったので、さっさと寝ないといけなかった。でも全然寝られなかった。隣に弟がいるし静かにしないといけないとわかっているのだが、涙は自動的に出てきたし声も勝手に出た。なかなか寝られなかった。

 翌朝、やっぱりじいちゃんは死んでいた。棺桶に向かって「あ!!!じいちゃんが死んでる!!!!!」とでかい声で言った。やっぱりじいちゃんは死んでいた。

告別式まで数時間。母が喪服を買ってやると言い出した。スーツがあるから大丈夫、ブラウスだけ黒いのを買うからと言ったのだが、「あったほうがええやろ」と母は言った。どうせいつか買うのだから、買ってくれると言うなら素直にもらった方がいいと頭ではわかっているのだが、どうにも嫌だった。喪服を買うという事は、死と向き合うことだから。これから何人もの人を送り出していくって認めることだから。だから嫌だった。人には順番がある。順番に死んでいく。私の方が先に死ぬなんてことはあってはならない。周りからはそういわれる、自分でも理解できる。でも嫌だった。大事な人が死ぬところを見るくらいなら私が死にたかった。私は自分さえ良ければそれでいい人間なので、家族が死ぬところを見るくらいなら先に私が死にたかった。

 

 結局喪服は買ってもらった。母に「立ってみて、見せてみて」と言われて、くるっとまわった。初めて制服を着るときみたいだなと思った。

 告別式の最中も、やっぱり涙は自動的に出てきた。読経の時間は長い。ひっこんだと思っても、また意味のわからないタイミングで涙が出てくる。ひくひくと声も出てくる。ほかにも人がいるし恥ずかしいから泣き止みたかったのだが全然止まらなかった。もうどうしようもなかった。

 私は骨壺をもつ係だった。弟は棺桶を担ぐ係だった。箱に入れられて蓋をして、よくわからない布をかぶせられてたじいちゃんは、なんだか人間じゃないみたいだった。

 それから火葬場に向かった。市内に火葬場は一つしかない。父方の祖母が死んだときも、ここでばあちゃんを火葬した。でもその時の記憶がない。直前まではあるのだが、骨になってからの記憶がない。骨になったじいちゃんを見たくなかった。きっと耐えられない。ばあちゃんの時の記憶がないのも、きっと耐えられなかったからだろうと思った。

 1時間半でじいちゃんは焼けた。本当に嫌だった。骨なんか拾いたくなかった。もうこれでもかというほど泣いたけれど、たぶんそれ以上に意味がわからないくらい泣くんだろうなと思っていた。でも逆だった。骨になったじいちゃんを見て、何故か急に落ち着いた。諦めがついた、とも少し違う。でも何故か、涙は出なかった。お別れができたんだと思う。葬式は故人のためではなく、残された人のために行うのだと聞いたことがあるが、本当にその通りなのだなと思った。危篤とわかってからずっとアホみたいに泣いていたのだが、やっと雨が上がった。

 

 その後、一旦実家に帰って、じいちゃんの家にいった。和室に仏壇ができていた。遺影の中のじいちゃんは、やっぱり超いい笑顔だった。「あ!!!じいちゃん!!!なんで死んどんの!!?!??もうやめてや!!!!!」とでかい声で言ったら母がひっくり返って笑いだした。「もう!!あかんでー!死んだら!」と私もめちゃくちゃ笑った。線香の形がうんこみたいだったのも面白かった。「何このうんこみたいな線香」と言ったら、弟が「こんな立派巻きグソあるかい!!」といって笑った。みんなでひいひい笑った。遺影の中のじいちゃんは、やっぱり超いい笑顔だった。

 

 それから、母がまたじいちゃんの若いころの話をしてくれた。やっぱりクソ野郎だった。結構なレベルのクソ野郎だった。でもやっぱり、私のなかのじいちゃんは、めっちゃピノくれる優しいじいちゃんで、あの遺影みたいに笑顔の可愛いじいちゃんなのだ。

 

 『西の魔女が死んだ』という小説がある。その中の好きな台詞で、こんなのがある。

「オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ」

うちのじいちゃんも脱出大成功なのだ。アホみたいにタバコを吸いまくって弱った身体からダッシュツしたのだ、それだけの話なのである。

 

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オジイチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ!

 

 

 

 

おわり。全人類禁煙しろ!!!!!!!!