※ネタバレ、自分語り注意
海が好きなので、ファインディングドリーを見てきた。
海の映画は、映画館で見るに限る。スクリーンを通して、まだ行ったことのない海の世界を旅するのだ
最近はゴーストバスターズやらシン・ゴジラやらを観たので金欠気味。観にいくかどうか少し迷った。しかし、ツイッターで
「ファインディングドリーは、発達障害の子を持つ親にはぜひ観にいってほしい」
というつぶやきを見つけ、行くことを決意した。一体どういう映画なのか。
ドリーは記憶障害。なんでもすぐに忘れてしまう。ついさっき喋ったことを、もう忘れている。そんなドリーを、両親は沢山の愛で包み込む。「できないからダメだ」と撥ね付けるのではなく、どんな小さなことでも「できたね、すごい」と言って褒める。
映画が始まって数秒、ベビードリーの「あたしすぐ忘れちゃうの」の次の両親のセリフが始まった時には、もう泣いていた。私は映画を見るといつも開始数分で泣き始めるのだが、今回のは最速記録だ。(前回の記録はズートピアの30秒)
こんなふうに育てられたかったな、と思った。
ドリー程ではないにしろ、私も生きづらさを抱えて生きてきた。得意なことはいくらでもできる。でもそうじゃないことはあまりできない。特に算数と運動が苦手で、嫌で嫌でしょうがなかった。しかし母は無理やりやらせた。
夏休みにいきたくもないのにプールに連れていかれたり。おなかが痛いと言ったらじゃあ走ってこいと言われたり。つきっきりで算数を教えられたり。
高校に入ってからは何かを無理やりやらせる、ということはなくなったが、ほめられることもなくなった。当時どうしてもやりたいことがあったので、非常に偏差値の低い高校に入った。母はそれが嫌でしょうがなかったらしい。
国語が得意だった。期末テストで何点とったよ、何位になったよと言っても「あの高校だからでしょ」といわれ、模試で満点をとっても「どうせ同じレベルの学校での模試でしょ」といわれ、部活で賞をもらってもとくに褒められず、市長の前で演劇を披露する、となったときも、(演劇部だった)一応観に来てはくれたのだが「恥ずかしくて顔があげられなかった」と言われた。あ、新聞に載った時はさすがに褒められた。嬉しそうだった。私も嬉しかった。
現在私は、承認欲求の塊だ。とにかく褒められたくてしょうがない。なんでもいいからすごいとか言われたい。なんでもいいから。
一度、その思いを手紙にしたためたことがある。そうすると、それ以来そういうことはなくなった。しかしそのころにはすっかり自己評価の低い人間になっていた。
あかん書いてたら涙出てきた。
もちろん母のことは好きだし、母は母なりに私に期待をしていた時期もあった。私が進路希望用紙に、母と同じ学校の名前を書いたときは、本当に喜んで、まだ入学が決まってもいないのに制服を貰って来た。
今思えば、勝手に傷つけられた気になっていたけれど、最初に傷つけたのは私なのかもしれない。親は親なりに進むべきレールをひいてくれたのに、私がそれを片っ端から剥がしていくのだ。諦めない方がおかしい。
ファインディングドリーには、さかなクンもかかわっている。さかなクンの両親は、小学生の頃絵ばかり描いて「将来どうするんですか」という担任の先生に「この子は絵が好きなんです。だからそれでいいんです」と好きなだけ絵を描かせた。タコに興味を示したさかなクンのために、毎日毎日タコを買ってきてタコ料理を作ってあげたという。
好きな事だけやらせるか、将来のことを考えて全て満遍なくやらせるか。
私の親はたまたま後者だっただけで、別に悪いとは思わない。ただ、生きるのがつらかったな、と、思う。
ドリーの両親は、できないドリーを決して否定しない。どんな小さなことでも褒める。もう泣きすぎてメイクはドロドロだった。始まってまだ5分も経っていないのに。
幼少期の回想シーンが終わると、ファインディングニモの一年後から始まる。
マーリン(ニモの父)は、物わかりの悪いドリーにイライラする。ニモがケガをした時、必死で心配するマーリンに、ドリーは何度も同じことを聞く。ドリーなりに心配をしているのだが、すぐ忘れてしまうので何度も同じことを聞いてしまう。
そしてカッとなったマーリンは、つい「あっちで静かにしててくれないか。忘れるのは得意だろう」という。ドリーはショックを受けていなくなる。
ドリーは「足りない人」の象徴、マーリンは健常者の本音の代弁者として描かれていたように思う。
マーリンは、作中で「足りない人」相手には絶対に言ってはいけない事を何度も言う。しかし、スクリーンの前の人は、殆どがマーリンと同じ気持ちのはずだ。ドリーの言動は確かに不愉快。マーリンは健常者の本音の代弁者だ。
そして、ニモは仲介役。「足りない人」に対してベストな接し方をする。そして、言ってはいけないことを言うマーリンを咎める。
ドリーは、一人では何もできない。ドリーが一人になるシーンでは、ほぼ毎回「誰か助けてくれる?」「あたし、助けがないと」といったセリフが出てくる。
ツイッターで「この映画は障害も個性っていいたいんでしょ」と言ってる人がいたが、個人的にはそうでなくて、この映画は「発達障害の人にどう接したらいいのか」をわかりやすくかいたマニュアル的な映画だと思った。発達障害の人にとっての理想の世界だ。
基本的に作中に出てくるキャラクターは、親切な人(魚)ばかりだ。しかし、もちろん冷たい人たちもいる。そういった人たちに出会った時、ドリーはただただおろおろするばかり。
しかし、周囲が適切な接し方をするとドリーは途端に活躍し始める。周囲の接し方次第で、「足りない人」は「すごい人」になれるのだ。
ドリーの両親は、ドリーとはぐれたあと、彼女が見つけやすいようにと目印をたくさん作って、何年もそこで待っていた。これも、適切な接し方の一つだと感じた。とことん「足りない人」に優しい世界だ。
ニモは、「足りない人」たちにとって理想の存在だ。健常者の心無い言葉を咎め、「足りない人」の良いところを見つける。日本には、このニモが足りない。
これまたツイッターで見たのだが、「クズになりやすい日本のADHD」という画像。
転載されまくっていてどれが本家なのかわからないのでリンクは貼れないが、簡単に言うと、日本ではADHDに対して理解がないため、周りに「なんで人と同じにできないんだ」と揶揄されて自己評価が低くなってクズになりやすいが、外国ではADHDに対する理解があり、周りが接し方もわかっていて、得意なことをとことん褒めるから、「自分にはできないことも多いけど、得意なこともあるんだ」とクズになりにくい。
ということらしい。
ニモがね、ニモが日本には圧倒的に足りないと思うの……。
そんな観点で見ていたので、ファインディングドリーは中々に心に来ました。
友人に、ADHDと診断されている人がいるのですが、その人もこの映画を見て泣いたそう。「ドリーの家は自分の家と全く違う」と。
良い映画でした。子供は退屈かもしれないけど。
ドリーが両親の死を知らされたとき、視界が歪む演出とか、リアルでよいなあとまたボロ泣き。両親と再会するシーンもまたボロ泣き。
タコがイケメンでしたね。ほんとうにいい奴で。
海の映画なので、キレイな絵をたくさん見られると思ったんですが、意外と海は汚れていて、一番きれいなのが水槽の中っていうのがいい皮肉だなと思いました。
あとディズニーだから、最終的には親と会えるだろうという安心感がよかった。
ドリーは、いろんな人に助けられながら旅をしました。
しかし、ドリーもまた人を助けていた。
ドリーの足りない部分を周囲の人たちが補い、そのおかげでドリーが力を発揮できる。
ドリーに心無い言葉を投げかけたマーリンも反省する。なんて優しい世界。
ドリーは実際周囲に多大なる迷惑をかけているし、それにイラつくのも当然。しかし接し方次第ではお互い幸せになれる。優しい世界すぎる……。
来世はファインディングドリーの世界に生まれたいです。
また見たいです。
おわります。