羽田圭介のスクラップ・アンド・ビルドを読みました。
あらすじ
「早う死にたか」
毎日のようにぼやく祖父の願いをかなえてあげようと、ともに暮らす孫の健斗は、ある計画を思いつく。
日々の筋トレ、転職活動。肉体も生活も再構築中の青年の心は、衰えゆく生の隣で次第に変化して……。
閉塞感の中に可笑しみ漂う、新しい家族小説の誕生!
読みました。健斗は祖父を安楽死させるために、足し算の介護というものを行います。なんでもしてあげるのです。あれをしてくれといわれたらしてやる。あれをとってきてといわれたらとってきてやる。とにかくなんでもしてあげるのです。人間は何もしないと衰えていきます。祖父に動かなくてよい環境を与えてやり、完全に動けなくしてしまうのです。
健斗の母親はその反対の介護を行います。動かせます。と言ってもなんでもかんでもやらせるわけではなく、食器を下げるとか、洗濯物をたたむとか、できそうな範囲の事をやらせます。祖父が泣き言をいうと𠮟りつけます。やらないと本当にできなくなるからです。
本を読んでいて、うちのことかと思いました。いまうちには退職した父がいるのですが、事故の影響で色々な動作が緩慢になっています。椅子に座ることすら一苦労。見ていると不憫で色々と手伝ってやりたくなるのですが、母は父に厳しくします。例えば、犬の散歩、洗い物、洗濯物を干す事、などは父の仕事なのですが、やらないと叱ります。私が実家に帰ってきてから、父は途端に仕事を放棄し出しました。自分より下の立場の人間が誕生したからかもしれません。それも一理あると言いながらも、母は「これはお父さんのためだから」と仕事をさせます。ちょっと厳しすぎるんじゃないかと思って、父の仕事を手伝ったこともあったのですが、この本を読んで考えを改めました。
母よ、あなたは正しい。
つい数時間前に読み終わったばかりなのですが、母が行っていたのは正しい介護。私が行おうとしていたのは足し算の介護です。あの本を読んで以来、例えば自分のお茶をいれるついでに父の分もいれようとしたとき、あっ、このやさしさが間接的に父を殺すんだな、なんて思うようになりました。もう優しくできない。
私「お茶淹れるけどいる?」
父「いる」
私「あっ……このやさしさが間接的に父さんを殺すのか」
母「せやで」
父「お前に殺されるなら本望や」
ちょっと何言ってるのかわからないんですけどね。とにかく、この本を読んで初めて母のやさしさがわかりました。作中にも書いてあるんですが、足し算の介護よりも見守る介護の方がよっぽど大変なんですね。
リハビリ代わりの家事として、畳んで分類する作業だけ毎日祖父にやらせている。母や健斗がやれば五分で終わる作業を、祖父は三〇分かけて行う。最後には必ず分類ができず誰かに泣きついたり大げさに意気消沈するため、母や健斗がやってしまったほうがはるかに楽だ。しかし刑務所内の工場労働と同じで社会的に役立つ意味合いより、本人の更生というか自立支援のために必要な労働だった
(スクラップ・アンド・ビルド)
自分でやった方がはやいけれど、それでは相手の為にはならない。父に何かと仕事をさせるのは、母の優しさだったんですね。
私「父さん、この本ね、孫がじいちゃんに何でもしてあげて、何にもできんようにして死なそうとするんじゃけど、母さんは父さんに仕事をさせようとするけんね、父ちゃんのこと愛しとんやね」
父「(にやにやしている)」
母「愛しているかどうかは別として、でもね、動かんかったらほんまに何もできんようになるけんね」
父「(にやにやしている)」
私「じゃけんね、仕事して」
父「(にやにやしている)」
愛しているかどうかは別らしい。
とりあえず、私は猛省したので、これからは無責任に人に優しくすることはやめて、本当に相手に必要な事は何かを考えて生きて行こうと思いました。なんかすごく損しそうだけどね。
おわります。
父上、最近は文句も言わず働いてます。